走りっぱなしのはなし
思い立って書く小話です。
「かのん」ちゃんの、多分戦ったりそうじゃない話。
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血管がぶつんと切れた。
そんな気がした程度で済んだのは、まだ倒れていないからだと思う。
花音は大きく息を吐いて、デスクトップに開かれたままのデータを閉じる。舌打ちしそうになるのをぐっと堪えて、デスクの引き出しからチョコレートを取り出した。定時後ならば、至るものをひっくり返して暴れていたかもしれない。
パッケージに踊る「ストレス社会で生きる現代人へ」というキャッチコピーを眺める。いやいやもうストレス社会なんて、そのストレスたる原因を生み出すのは大多数がヒトなんだけどどうすればいいですかね、我慢しましょうかね。がりっと粒を噛んで、味わう間も無くカフェオレを流し込む。甘さより、カカオの苦味が勝った。
「花音さん、いま大丈夫ですか?」
若い派遣社員が様子を伺うように、大きな瞳で覗き込んでくる。大丈夫なわけはないが、大丈夫、と振り向く。笑顔が貼りついて、うまく口角が上がった。
尋ねられた事案にスラスラと答え、うん、これでよろしく、と資料を返せば、ほっとした笑みを浮かべて派遣社員は自席に戻る。ということはつまり、花音はうまく笑えていたのだろう。
わかってんだよそんなこと。キリキリと痛む胃を押さえて、メールも閉じた。別のフォルダに移して、席を立つ。
全然、つらくない訳はない。
会いたい人には会えなくなるし、先が明るくない。この時期は何となく職場が嫌になる。春だというのに。否、春だから、かもしれない。
フロアを出て、まっすぐに階段へ向かう。人通りの少ない踊り場で、花音はしゃがみこんだ。清掃員が丁寧に掃除したばかりなのだろう、床は静かに光っている。
嫌味な先輩。愚鈍な後輩。不安定な上司。まったくどこを切ってもすべて地雷なうえ、突発的な案件に追われていては身が持たない。嫌なことはタイミング良く続くものだけれど。
スカートのポケットから携帯を取り出す。ロック画面の通知には、飲み会の誘いがもう入っていた。アプリを立ち上げ、すぐに返信を送る。
「……うるせえな、お前に言われなくてもわかってんだよ、そんなこと。遠回しに嫌味言ってんなよ」
大きく息を吐いて、目を閉じる。フロアに戻れば、優しい自分を演じるしかなくて、今ぐらいは仮面を外させて欲しい。
目の奥が、つんと痛くなる。呼吸が震えているのは、遣り場のない怒りのせいか、疲れか。
会いたいんです、と頭の中で思い描くメッセージを消し込んで、立ち上がった。衝動に駆られるなんて、大人からも程遠い。会いたい、なんて軽々しく言うもんじゃない、きっと。会ってくれなどしないのだから。
どいつもこいつも、女だからってなめんなよ。
気がついたらそんな言葉が唇から落ちて、慌てて周りを見回す。物音ひとつしない廊下は、まるでその怒りを鎮めてくれるかのように、ひんやりとしている。壁一枚隣はそれなりの喧騒に包まれているにも関わらず、だ。
携帯をポケットに戻して、大きな伸びをひとつ。新しい空気が脳の奥に届くような、すこし視界がクリアになった気がして、花音は一歩ずつ踏み出した。