それなりのはなし
溢れるほどの情熱を胸に抱いたら、私の目から涙が溢れまして。
久しぶりです。
いろいろあるけど生きてました(過去形)(生きてるよ)
久しぶりに、ぶいこん行きました。
前に行ったの20周年か何かだったかなぁ。その時は横アリで、今日も横アリで。
4曲目ぐらいで涙腺ぶっ壊れちゃったぜ。
私が初めて買ったアルバムのリードトラックだったからさ!しかも大人になってから聴くと結構よすぎて、友達が見てる横で大洪水()ゆるせ。
V6は私のジャニヲタの原点でもあり、初めてコンサートに行ったのもV6でした。
学校へ行こう!はいつも欠かさず見てたし、エンディングロールで三宅くんのウインクに見惚れて当時小学生の私は転がされたのであった。40過ぎても溢れる可愛さ魅力はすごいぜ大先生。
なぜか私の中では三宅くんは大先生だった。
ぶいちゃんはどっぷりと言わずとも、私と母の1番濃い時間に寄り添ってくれていました。
小学生〜中学生の頃、ちょうど母方の両親(なので祖父母ね)の介護で、母の実家と我が家を行き来していまして。
その車の中でずっとV6を聴いていたものです。
なけなしのお小遣いはCDに溶け、誕生日もクリスマスもCDに溶け。そんな生活の合間に、母娘でV6のバラエティを見るのも楽しみのひとつでした。
確かにしんどかったはずなんだけど、当時の頃の彼らの曲を聴くと、不思議とそんな楽しい思い出が蘇る。
ぶれない彼らをゆるゆると好きでいられたし、
まさかこんな日を迎えるとは思ってもいなかった。
懐かしい曲ばっかり歌われると思わなくて、マスクを取り替える羽目になるなど←
あまり多くを語らなかったけれど、それでもやはり惜しんでしまう。
なんで解散しちゃうんだろう、と母がぽつりと呟いたし、私も思うけれど。思い出はいいところで区切るのがいいのかもしれないし、結局深いところは本人たちにしかわからぬのだろうな。な。
始まりと終わりは対だし、離別は自分がするのも、見るのもずっとつらい。
なんなら離別を見届ける方が100倍つらい。何でもな!
この手の話は、よくわからん時に突然降ってくるから、大好きもありがとうも、ごめんも、伝えられる時に伝えておくしかないのだよね。言っても言い足りないけど、言わずに後悔するくらいならちゃんと伝えた方がいい。
噛み締めるのでいっぱいで、いろんなこと考えながらずっとステージを眺めていた。とてもではないけれど、解散してしまうような雰囲気がなかったり。でも、メッセージは完全にそれだったのだよなあ。終わってしまうんだなぁ、とその時に思った。
ほろほろ零れていくものは止まらない。
最後までちゃんといつものV6でいてくれてありがとう。いつまでもお互いを好きでいられるような、特別な絆が続いてくれるといいな。
横アリ出てから限界オタク爆発してすみませんでした
あと、我が家の冷蔵庫事情とか語ってすみませんでした。いつまでも、あると思うな親と米。
介護してくれた友人たち本当にありがとう〜やはり現場はとても潤った………
いつも難しいことだらけ。
見守ることしかできないことを見るのも待つのも、どーーーーしようもなく歯痒いのだけど。
自分にはどうしようもならないことはたくさんあるね。そうね。今回のことがそうであったように。
言葉にしないと伝わらないこともあるし、伝えなければ結局それは何にもならないのだ。私も誰もエスパーじゃなかった。はい。(一つ前の日記でも同じこと言ってた。壊れたラジオか私は)
終わりの瞬間までちゃんと見届けようね。
たたみます。
消せないはなし
新宿駅のJR線ホームへ続く階段、
やっぱり眩しくてちょっと切なかったな
自分の組織の親玉組織の役員を卒業しました
て言っても去年卒業して、今年度は会計監査で居残ったんだけどなんやかんやとごにょごにょ
これでほんとにおしまい
もう4度目の退任挨拶はしない
労働組合の役員やることになって8年目
その時間のほぼ半分くらいは、親玉組織に
足突っ込んでました
私なんてひよっこは片隅で愛想笑いしとこ、そのうち誰も気づかんやろ、と思ってスッと生きて行くつもりだったんだけどなあ
先輩に言いくるめられてちょっと突っ込んだらズブズブでした。
でも沼の先に、大好きだなぁと思える
尊敬できる仲間たちにも会えました。わーい。
当時、私以外みんな東京に住んでて
私が上京する折に触れて飲みに行ったりしてたものです。
同性として憧れていたお姉さんと、数年前から実は接点のあった優しいイケメンの先輩(推し)と、お兄ちゃんみたいだけどブレない先輩と
組織にはいろんな人がいたけど、この3人が特に良くしてくれて、ビビり散らかしてた私を輪に入れてくれたり、組織感の情報共有したいねってことでよくご飯行ったりしてた。
推し先輩が組織で虐げられた(フィルター)ときも集まってみんなであーだこーだ話し込んだりしたし、私とお姉さんが学習会に行ってきて、帰りにカフェでお茶してたら推しとお兄ちゃん先輩が現れた…ということもあったし
推しが酔っ払うとぐだぐだに甘えてくるのも
「みーこを口説くなw」ってツッコむお姉さんも
お姉さんといいコンビ過ぎるお兄さんも
好きだったなあ
初めて4人でプライベートで飲もうって
なったのは2019年のくそさみ2月。
2軒ぐらいハシゴして、帰り際の新宿駅で
唯一方向の違う推しが、階段下から、ホームに向かう私たちをずっと見送ってくれたんす。
あれがなければ、今日はなかった。
お姉さんだけは去年卒業して
私は役職を変えて今年ようやく卒業。
推しとお兄さんも、今年卒業してました。
(この間まで知らなかったw)
推しの退任挨拶をzoomの画面越しに見てて
いろいろあったのに、大人な言葉を述べて愛おしそうに振り返る姿にすごく泣いてしまいそうで、たまらずお姉さんにLINEしたら「推しの最終公演かよ」って返ってきて相変わらず好きだなあって思いました()
私も結局いろいろあって組織への思いはだいぶ薄味になったけど、この人たちがいたからやってこれたわけで、去年もたくさん伝えたけれど、落ち着いたらまた連絡してみようと思う。
ありがとうも、またね、も、好き、も
口にしなければ何にもならなくて、こんなご時世だからこそ前向きな思いは言わないと後悔してしまうことも多分ある。何度だって言っていい言葉や想いもあるんだろうなって。
なんだか今年の夏、大して人に会ったわけじゃないのにいろんなことがありすぎて、だからこそ大事にしなきゃいけない気持ちもたくさんわかったんだと思うのです。
いつかこの人たちから忘れられてしまっても、私の記憶が抜け落ちてしまっても、どこかに残しておきたくて、たぶん筆を取った。
私の8年のうち、最愛の2年はちゃんとあったのだと
また真冬の交差点で会える日まで。
約束したものはないけれど、いま勝手にこっそり約束しました。
みんなお疲れさまでした。
はなしのはなし
Life is showtime.
It's wonderful entertainment.
合間に口ずさまれるこの楽曲が少し優しくて、自分についてた嘘を吐き出す瞬間があったな、とふと思い出しけり。
ということで、久しぶりにふぉ〜ゆ〜全員が揃った場を見てきました。
SHOW BOYを観に、これまた久しぶりのクリエ。2年ぶりか?ちゃんと前フリ見てなかったけど再演だったんだなぁと。
再演ってことはつまり私の中の限界ヲタクが爆誕するので割愛。しゃーない。
やはり福田悠太は最高でした。
ステージに立った彼を観た瞬間に涙出そうだったんだけど、さすがにほぼ前列でいきなり泣いてるのはアレすぎて感情が自重。
設定が!夢を諦めた裏方だからもうアレ。福ちゃんっていつも不憫すぎてもう5周まわって好き。
「Nobody's Perfect.完璧な人間なんていないの」そういえばそんなフレーズあったな、と思ってぐさぐさ刺さってしまった。
夏っていつも仕事柄落ち込んでしまうから、とても刺さった。久しぶりに頭空っぽにして、手を叩いて推しを眺められた。私やっぱこの作品好きだなって思えたし、まだ自分の脳死んでなくて感動した()
ヲタクはどこまでいってもヲタク。
ふぉゆ4人がそれぞれ合間に零す本音は、それはもう今に満足していない、自分に嘘をついて生きている姿みたいだなと。そんなこと思いながら。
There's No Business
Like Show Business
そういやまともに外に出たというか、出てたけどあんまりいろんなことに触れてなかったというか。
いろんな人にいろんなことを伝えたかったのに、言葉がどれも正解じゃない気がして、結局埋もれてしまっていたので、ここに供養しておきます。
ここまでありがとうございました。
特にTOYちゃん、猫神様。
大丈夫って言ってたけど、前段のことも相まって、ボディブローみたいにじわじわ痛くて。見ないフリしたんだけど、やっぱ痛かった。
もう誰に何言ったか覚えてないけど、始まりすら結局のところ自分で選び取っただけのことで、私はやっぱり下手くそだったな、と。
それでもいいとは思わないけども。
誰かの目にはちっとも進歩してないって見えたり、別の誰かの目には少し変わったって見えたり、だといいな、と思います。今は。綺麗な球体にはなれないから、しゃーないか。
言葉を選びがちなのは、多分どこかで失いたくないからで、それで遅くなるんだと思う。
だいぶ自己主張するようになったけども。足りない人にはきっとまだ足りない。仕方ない。
も少し時間かかると思うけど、私がんばるので。
という言葉だけ供養させてくださいませ。
っしゃごはん作ろう。
たたみます。ますます。
忘れえぬはなし
10年前のことなんて大して覚えてないんですが、ただ、あの頃は厳しくて就職がギリギリまで決まらなかったので、決まったことを知ってバイト先まで飛んできた両親の顔はよく覚えてます。
お母さんなんて、私の顔見て泣いたもんな。
というわけで、勤続10年おめっと私。という話。
お母さんが20代後半で結婚して私や弟を産んだので、自分もそうなりたいなーそうなるかなーって思ってたんだけど、未だにキャリアとプライベートで揺れてます。娘は。
思い描いてた通りにはあんまりならんもんだ。
新卒でドキドキワクワクして入社して、その時の最初の上司は、10歳上のお姉さんでした。
職場見学で「うちの係に配属されるのはどんな子だ!?」って前のめりに現れたその人の当時の年齢に、私はなってしまったのだなぁ。その人の気持ちが今はよくわかる。私もよくやるw
平坦ではなかったけど、やはり厳しいご時世だったので、先なんてわからない。だから、なるべく頑張って続けたいと思ってたんですがね。意外と早かったね。
いろんなことしかなかったな。
入社して丸2年で「一番残業が多いやばいところ」への異動を命じられてみたり、そこの課長とソリが合わなくてブチ切れたり、メンタル死にかけて休みながら出勤してみたり。
時にはチームの人に呼び出されて泣きながら相談されたり、なぜか上司に説教すると言う意味のわからんことを繰り返してましたw
かたや、尊敬できる先輩や可愛い後輩にも恵まれて、近しい人はいい人ばかりだったと思う。
大好きなボスが「仕事で失敗しても命までは取られねえよ」と言ってたのが、今なんとなく私の支えだと思う。
まじで。
10年働いたことは別に偉くもなんともなくて
私の同期も後輩も、ぽんぽんと去っていったし
働くことが全てじゃないんよな、とも思う。
働くのは生きるための手段のひとつ。
逃げても命までは取られないんよな。
そこで自分らしく働けるなら
そこで自分らしくいられるならいいんじゃね?と
なんとなく思います。
思いもよらないことの連続だったし
まさか節目に転勤するとは思わなかったわね。
こんな時だから、次の10年はおろか
1年先もよくわからないけれど
なんとなく、それとなくやっていきたい。
今までありがとうと、これからもよろしくを。
冬の入り口を眺めるはなし
久しぶりになっちゃった。
いろいろあったけど心臓は動いていて、規則正しく息をしています。そういえば前に書いてた胃カメラの検査は、逆流性食道炎としっかり診断されて、しばらく薬とお友達でした。
怖いことに体重がまだ戻らないのである。怖いな。
夏の夜から秋の夜、冬の夜へと渡り歩いていました。
夏に寂しくなって放った私の中の青い鳥が、友達を連れてきてくれて。その手に引かれて、ネットだかゲームの世界だか、それでも私は確かにあたたかい場所にいたのだけれど、それを壊したのもまた私だった。きっかけはもっと遠いところにあったけど、それを掘り起こしたのは私だった。
いつかはこうなっていた、と云って。その子はまだ私と電波の向こうにいる。もう夜更けまでは語らわないけれど、学生の頃のような懐かしい気持ちがそこにある。
青い鳥はその間にも客人を連れて帰ってきた。
とっても眩しくて、でも光に透かしたら消えてしまいそうになる。確かにそこにいて、私が忘れてしまっていた感覚をゆっくり起こしてくれる。
嘘ではなく、愛想を。誰も傷つかないように。
いつしかそんなことを思って言葉を選ぶようになっていた。私という一個人の感情と、組織人という私の立場を天秤にかけるのはとても難しくて、いつの間にか疲れてしまったし、大事なことを言えなかった、私が生まれてしまっていた。
顔も知らない子に余計嫌われたくない。というのは杞憂で、私に鎧を置く場所をそっとくれる。
言葉を選んでるでしょう、と笑う。そりゃそうだ。だから少しその場所借りるね。重たいのよ武装するのも。
好きなものを差し出してくれる。見せてくれる。きっと大事なものもそこにあると思うから、私も惜しみなく並べたい。
そして好きなものがあるなら持っていってほしい。
なんて考えてたら、冬が来てた。そんな感じ。
好きな場所や人が急に遠くなって、私は途方に暮れてたんだと思う。寂しくて走り出して、その先に、いろんな人たちがいた。
後悔があるとすれば、品川の夜に黙って私を丸ごと明け渡してしまえばよかったことぐらい。今ですら新宿の雑踏で初めてみんなと遊んだことも、ホームの階段を上がる私たちをいつまでも見送ってくれたことも、愛おしくて仕方ない。それでも私は、私をいま呼んでくれるところへ向かっている。
捨てたわけではない。今でも私を呼ぶ声はとても心地よいってわかってる。でも、過去は私のことを呼んでくれないし、手を繋いでくれない。
それなら、自分を呼ぶほうへ。自分が求められているところで生きたいと思うじゃないか。そうしたっていいでしょう。
好きだった自分の言葉が出てきた。
たった数ヶ月でこんなに変わってしまったけれど、でも確かに何かに必死だっだ私もいたのな。
http://miiiiiko16g.hatenadiary.jp/entry/2020/06/11/204941
また深夜のコンビニ前で会いましょう。
健やかたるはなし
ミラボレアスで会いましょう、という、そんな再会を祈る挨拶が最近好き。でもきっとそうじゃないと会えない。逢えないでしょう?
(とてもモンハンで申し訳)
人体ってすごいな()
初めての胃カメラを体験してきたよ。という話をします。そんなにエグい話ではないよ。
1週間ぐらい前、3日続けて深夜に胃痛で目覚めることが続き、これはやばいな…ということで、同週末、WEB会議の前にちょっとかかりつけの病院へ。
症状を伝えたところ、腹部あたりの触診で「これは検査受けておいたほうがいいですね」とアッサリ。
ありがたいことに今まで大きい病院のお世話になったことがないので、紹介状を書いてもらい、検査の予約を取ってもらう。
希望する病院ありますか、と聞かれるも前述の通りなのでわからんwってなった矢先、偶然にも祖父が20年前に入院した病院が選ばれましたとさ。あなおそろしや。
早めにご飯済ませる。検査の日は朝絶食。ここまでは弊社で受ける健康診断と何ら変わらない。
さて、病院に着いたら受付で手続きを済ませます。
いやしかし20年経ったら流石にすこし変わってるかな…と思ったけどそんなに変わってなくてわろた。夜間出入口の案内看板、懐かしかったな。祖父を休日に見舞って、そこから出入りしたな。なんて思い出して、低い天井の廊下を奥の奥まで歩く。こんなに天井低かったのか。
検温。それから血圧と脈拍の測定。いやいや血圧、下が50ちょっとって相変わらず低いなお前は。
看護師さんから「紹介元の病院からは、こういう症状の疑いがあるので、こういう検査をします。検査方法や今後の流れを確認してくださいね」と渡された紙、疑いのある疾病に「慢性胃炎、十二指腸潰瘍、胃がん」って書いてあって最後の3文字にビビった。ちょっと気が遠くなる。
何よりビビったのが、胃カメラ挿入にあたっては局所麻酔だということ。周りの経験者からは全身麻酔だったと多く聞いたので、これはもうやばいパターンだと察して気が遠くなる私w
よほど死にそうな顔をしていたのか、若い看護師さんが励ましてくれてありがたかった。その優しさに感謝のお手紙を書きたい。
検査室に入っていざ!ということでスプレーで舌に麻酔を吹きかけてもらい、飲み込む。診察台に寝て、マウスピース嵌めるとこまでは順調。
ちなみに検査技師さんが女性だったので安心。
さて、いよいよ胃カメラ入れるよーって、喉奥までは順調。
しかし人体、いつも喉から下って基本的に大きな固形物入らないじゃないですか(と思っている)
麻酔してても痛い、あと急にえづきだかゲップだか分からんものが止まらなくなる。とりあえず身体がびっくりしてるのは確か。
看護師さんが肩をさすってくれて、呼吸のタイミングとかリラックスを促してくれるんだけど、いかんせんそれどころではない私。勝手に涙出るし、モニターなんて見る余裕はない。あと検査技師さんも淡々とカメラ入れていくw
とりあえず喉がつらい!やばい!吐く!の三重奏だったんだけど、途中で看護師さんが「いまから十二指腸にカメラ入るので、右側がすこし張りますよ〜」って教えてくれたあと、確かに右側に異物!ってなって、ここが十二指腸か〜などと感動せり。してる場合か。
とりあえず感情と感覚が右往左往してるうちに終わりました。ゲップ我慢してくれって言われてたのに我慢できずすまねぇ…ってなった。あともう次から全身麻酔で一思いにやってくれ!!!!!(切実)(次があるかはさておき)
カメラで見た範囲だと思うんだけど、食道炎らしい。しかも治りかけ?残ってても軽度らしい。ただ、検査結果は追って紹介元の病院に送られるそうなので、それまでまったく気が気じゃありません。まる。
細胞の検査とかするんかいな。しかして凄かった。カメラどんだけ入ってんねん、てぐらい動いてて、いやほんと痛みの裏で人体の不思議さに感動した。
まあそんなわけで予断を許さぬな感じなんだけど、ともあれ生活リズムの見直しやん…ってなった。
原因がわからんていうか、ストレスやなって方々に言われるけどそんなの今更wwwって感じでした。だったら胃潰瘍ぐらいできとるわ。知らんけど。
ハチャメチャに食べたり飲んだりは当面できなさそうなんだけど、きちんとご飯食べれるってありがたいやって思った。
なんせ人より食べてたし、ようやっと日本酒楽しい〜ってなってきたから。逆に見つかったのが今でよかったのかなぁ。そう思っておこう。
じゃないと多少無理はしていただろうし、お付き合いの多い世界。
てなわけで、しばらくは様子を見ながら。とはいえいつまでもビクビクしてはいられないけれど、いい機会をもらったのかも。
皆さんもご自愛くださいませ。私は自粛期間のうちにすっかり引きこもり癖ついてしまったので、これからに備えて整えたいと思います。
初めてわらったはなし
ぶっ飛んだ人ほど心根があたたかい。
1年越しの「あんなの書きたくないんだよね」事件と今週末に怯えて絶賛ノイローゼ気味だったんですけど、全然別のとこできちんと自分を肯定してもらえた(ような気がした)ので、もういいや喋ったれ〜という気持ちになった。やけくそではなく、ほんとにこんな人間関係が欲しかったのだ。神様なんでこんな思いもよらぬとこに置いたの?
異性と3時間喋れるのは立派なスキルだよ、と締めくくられた。そんなふうに褒められたのは初めてだ。しかもシラフで。私はとても言葉に詰まってしまう。
いい子にしていよう。それとなく微笑んでいよう。と、してた。だって初対面ではっちゃけたら嫌でしょ?そういうこともしたけどダメだった、自分は本当にこういうことに向かない、と思い続けて辿り着いた、いい子のわたし。
を、2年も続けた。いやそれも楽しかったけど、結局みんながオープンじゃないとこで自分だけお腹見せるのはバカやなって。若干見せてバカやなって思ったりもしたけど。
先輩曰く、東京に行ってる時のお前は楽しそうやった、らしいのだが、多分それすら怖かった。楽しかったけど、地雷踏んで嫌われるのが怖い。と、思いながら生きていた。
そうやって生きてたのに、たった一言「あんなの書きたくない」って言葉が思ったより刺さった。
表現が露骨すぎるよ人の狩猟装備に愛あるダメ出ししまくって、私は耐えて倣ってきたのにその仕打ちは何やねんむしろ何でその時に言わへんのや!お前の口は何のためについてんねや!!!!!!!という言いようのない怒りと悲しみみたいなものがない混ぜになって、それを飲み込んで私は笑ったフリをした。またここで生きてたのは何だったんだろ。とは、言わないことにした。
いつも私をいじってたみたいに、軽い感じで断ればよかったやないか、という一抹の寂しさはあったけども。終わりの際にそんなこと言わんでも。
すこし近づきたかったし、不安に潰されそうな瞬間に差し伸べてくれる手が好きだったんだけどなぁ。そうかぁ。
そんなわけで心折れることも色々あったんだけど、ちょっとだけ生き返りました。
何で新しい世界はこんなに勇気がいるんだろう。いっぺんにいろんなことが変わってしまうと、どう立ち回ればいいかわからなくなる。
やってきたことは実績としてあるんだから自信持ちなさい。と、夜風に乗った、先輩の言葉は優しい。
そうだった。私は私にしかできない人間でいよう、と、この2年間確かに思っていたのだ。それをもう少し頑張るだけなのだわ。
あんたのお疲れ会しなきゃね、と、職場の子が笑ってた。私まだ退任しないよって言ったけど、「でも一区切りは一区切りじゃん」って。そっか、そんなに難しいことじゃないのか。
などと。