たからもののはなし
歓声に消えていったんじゃなくて、
私たちがもしかしたら夢に融けたのかもしれない
ということで、嵐ラストライブの配信おかわりしました
挨拶はきっと円盤になっても一生泣く
とりわけ、櫻井翔という一人の人間の言葉と涙は
深く突き刺さってしまった
(まあ、かつて推した人だから、というのもある)
だってさ~~~~~~~あんなに「それぞれの立場で仕事しているときの表情」と「嵐としての表情」を愛おしそうに語ったらそりゃ泣くて
そりゃ宝箱に閉じ込めたいとかなるわ…と思いました。
私の人生の半分とは言わずとも、でも一番楽しかったころの傍には嵐がありました。
ちなみにデビューしたころまだ私は小学生だったんですが、なぜか母があのシングルを買っていたことは覚えています。なぜか、ね。
実はデビューしたころからずっと追いかけていたわけではなく、それとなく時間を経て、ちょうど10周年を迎える前ぐらいにまた嵐の楽曲や作品に出会ったのでした。
久しぶりに手にしたシングル「truth」、ドラマ魔王も親と見てたし、PVに至っては擦り切れるほど見ていた。あのダークな雰囲気がめちゃめちゃ刺さったんですよね。赤と黒。
嵐にハマったころ、祖父母の介護もずっと続いていて、そういう生活の中で、嵐の存在というのは私だけでなく、家族もちょっと救われていた。
私と母は新曲が出ればPVずーっと飽きずに見ていたし、いつもレギュラー番組は誰かが見ていた。父がいつの間にかメンバー全員をちゃんと覚えていた。
お正月のババ抜き最弱王決定戦、いつも楽しみになっている。
そこからあれよあれよとハマり、嵐を通じて知り合った仲間たちもたくさんいて、コンサートの時には遠征するか~~~ぐらいのフットワークの軽さになってしまったのであった。行動力が開花したの、嵐のおかげかもしれない。
(知り合って間もなかった友達が「札幌一緒にいく?」と誘ってくれたんだけど、もともと行く想定していなかったので、お誘いいただいた時には軒並み飛行機も宿もなくて、親がすごい勢いで見つけた小樽のホテルに滞在した記憶。初めての北海道で、ライブ後えっちらおっちら小樽まで電車に揺られたの、いい思い出すぎるw秋だけど雪降ってるわァって感動したもんね)
私はね、とりわけ櫻井くんが好きでした。
賢い方というのは知っていたけれど、あの絶妙ないじられ方や、クイズショウで見せた強烈な二面性キャラから目が離せなくて、ほんと~に好きだった。
でも、ビジュに惚れこんだというより、その人間性というか、言葉の選び方にとても惹きつけられていた気がする。ユーモアを絶妙に散りばめた話が好きだった。なのに、いざというときに嵐の盾になろうとする。おいしいとこ全部もっていくやん…となったけど、きっと重圧もすごかっただろうな。
ラストライブ、素直な言葉がぽろぽろと涙と一緒に零れていくなぁと見ていた。コンサートで涙を流すところなんて見たことなかったけど、口をまっすぐ結んで、ああこのひとも想いが詰まっていくんだなぁと思ったりした。
ファンを大事にして、嵐を心の底から愛していて、この人のファンでいて良かったな、と思った。
もうああやって煌めくステージに立つことはないのかもしれないけれど、挨拶のとおり、これからもずっと嵐の作品を愛していきたいね。
久しぶりに昔のライブでも引っ張り出して、リビングに置いておこうかと思います。だってお母さんが見たそうにしてたからさ…。
おやすみ。
流れていく景色のはなし
11月が終わっちゃうらしい。
どこかの庭先の柿がのんびり揺れていた。のを見た。我が家の玄関にひっそりと植わっている木は、南天の実をつけていた。
年末を迎える前にと思って、少しずつ断捨離してみたり、プチ模様替えしてみたりしてます。いや~全然進んでないけど。なんでかって?ゲームしてるからです。仕方ないよね(とは)
片付けって不思議なもんで、見返すと、今の私には必要ないものだなぁと思うものがぽろぽろあって。いや当時の私の琴線には触れたからここにあるのだろうけれど。でも今の私が生きる上ではあまり必要ないんだ…ありがとね…という気持ちで少しずつ手放すということが積み重なっている気がしている。
選ぶのが苦手だ、私は。ということに気づいたのは、割と最近のこと。
別に人生において判断するという場面がなかったわけではなく。ただ、自分のことになると途端に選択できなくなる。ほんとに、何なら選択したくないぐらいまである。片付けは別。なぜか頭が冷えて選べる。
仕事はね、なんかもう組織としてこれがベスト、って見方するからなんか選択できる。ていうか選択しないといけないから選択する。何かしくじったらごめんってするのは私だし。
なのに、なんで自分の人生のことは選択が何もできないんだろう、と常々思ってしまう。と思ったんだけど、他人を巻き込みたくない、という勝手な勝手なエゴがずっと邪魔しているということもわかってる。これを選べば自分は幸せだけど、どこかで誰かを傷つけたりする。なんてずっと思ってる。
そういう、選択の先に「自分以外の誰かに起こる何か」がすごく嫌なんだろうな、と思ってる。そんな善人ぶって…と思ってる人もいるだろうけれど。
自分「だけ」の影響なら全然いい。掃除なんてその最たる例だと思っていて、「捨てて困るのは自分」だし、「その時の自分に必要なものを残す」わけだから、ありたい自分のままに取捨選択ができる。
ただ、選択して誰かに影響が及ぶということがどうにも苦手らしい。私は。
そうやって悶々と抱えている想いがずっと晴れなくて、最近なんだか、ああもうひとりで好きなように生きていきたいや、と思ったりしています。
手を取る相手なんて選べない、ということをこの歳にして思い知らされる事になるとは、誰が思っただろうか。おじーちゃんおばーちゃんごめん。
明日からまた片付け再開して邪念を払うか。
冬がやってくる。旅に出たいなちくしょう。
久しぶりのはなし
ハロー世界
とても久しぶりにこの日記を開きました。
2021年かあ、と。
あれからもう4年の月日が流れ、とうに化石となりつつあったこの場所を眺めていた友人がいてね。
これをとても印象深いと語ってくれて
終わりの始まりのはなし - かけらのかけら2020年6月かぁって。
労働組合のさ、上部組織の役員を退任する頃の話なんです、これは。
あれから時は流れ、私は2024年の9月に、自組織の労組役員も卒業しました。これで本当に普通の人…と思った。
思いきや、実は2023年の10月に、係長という役職を拝命していた。
ややこしい。
◼️会社(職制)
2023年10月まで…一般職
2023年10月から…係長
(2021年4月〜2023年1月は東京)
◼️労働組合
2020年9月まで…書記次長
2020年10月〜2023年9月…副委員長
2023年10月〜2024年9月…委員長
ややこしい。
ということをふまえて綴っていく。
2020年6月の頃はコロナもいいとこで、あらゆる制限がかかるわ何やかんやと世間が慌しかった。
もちろん仕事なんかも例に漏れず、そんな最中に私は東京への出向を命じられたりもした。
が、コロナ禍真っ只中の転勤と新天地はこれまた歓迎会という文化もなければ、そもそもの異文化、アウェーでの戦いみたいなもんで、3年予定だった私は1年と少しでギブアップして帰任していた。
この頃ちょうどハマったのがFF14なわけで、ここの仲間がいなかったらと思うと、己のメンタルはもっとズタズタだったに違いない。これは事実。
新規業務の受託により新部署設立、という名目で私は帰ってきたのだけど。
それからあれよあれよと係長へ。
おいおいメンタル負けて逃げ帰ってきたやつを係長にしてええんか?と思った行先は馴染みの古巣だったものの、まあひっくり返ってえらい状態。
ヤルシカナイネ。私の脳裏にとある舞台のセリフがよぎるなどした。ここで踏ん張れなかったら、本当に逃げ帰った奴でおわる。そんなん嫌すぎる。それだけ。
実際は、あまりに忙しいわ人が入れ替わるわで、終わってる暇がなかった。謝罪から始まる私の2023年10月。
時は流れて2025年春。
システム部門から一通のメールが届いた。
「2020年に提出いただいていたシステム改訂要望に手をつけたいのですが、打合せの時間をいただけますか」
はあ、2020年
私が一般職だったころ。東京行く前だ。
どんな要望書か、ファイルを開く。
要望項目を見て、すぐわかった。
私が書いたやつやんけ〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!
実は書いたことも覚えていたし、当時の上司にもいろいろ聞いていたが、結局ほかの改訂が優先されて手付かずだったのだ。
まあ別に流れてもええか…と思ってたら、え、やんの??いま????です。
書いた事は覚えているけれど、当時と違って実務もやっていないから正直不安。しかも5年前。
そんな不安をよそに、システム改訂は進み、当時要望した以上の機能まで実装されてしまうのであった。
え??そんな進むの??ま??である。
この5年の間に私はいろいろ変わってしまって、要望書を書いた時と進めるときで役職が違うなんて。
一緒にチェックしてくれた当時の上司(前述の日記で私を労働組合へ引き込んだOBでもある)がなんと、部長となって来たのだが、もちろん部長も記憶があるはずもなく、「どんな改訂要望だったっけ」と思い起こすところから始めたのであった。費用対効果どんだけ?と聞かれて覚えてるわけねーだろ!!!
すごいな。
そんな部長と先日個人面談を行い、「昔よく喋ってたから改めて話すことないねんけど」から始まったわけですが。
仕事の話から始まり、
出向してどうだった?という話をして
最後にこんな話を切り出してきた。
お前は労働組合の役員どこまでやったんやっけ。
と。
委員長1年やって終わりましたよ。去年。
つまり、OBOGの話ってこと。
じゃあ組織のあり方について話しても意味ないな、と笑って続けた。
「ウチの労働組合で初の女性委員長やったんだよ。お前、10年以上もよく頑張ったな」って。
ちょっと泣きそうになった。
前述の日記(くどい)にも書いたんですが、女性、というところがフォーカスされるのが好きじゃなくてね。
労働組合役員を退任するときまでずっと「私がたまたま性別上女だっただけだよ」と言っていたんですが。
よく頑張ったな、と労ってくれた人は多くはなかった。
ありがとう、お疲れ様は多かったけれど、褒めてくれることはあまりなかった気がする。
そうか、そうだったのか、と、ふわっと来た。
素直に「ありがとうございます」と言えた。まああなたの誘いがなければ、今日の私はきっともっと違う人だったよ。もっともっと静かに生きていた。
2020年の頃の私へ。
あの時に終わりを迎えていなければ、東京へ行くこともなかっただろうし、今ほど電子世界で仲間を迎えることもなかっただろうし、なにより今の立場として生きるにはもう少し時間がかかったと思います。
終わって正解でした。
長く続く不思議なご縁だけを残して。
さて、また笑ってあの頃の人たちと酒でも飲もうかね。
それなりのはなし
溢れるほどの情熱を胸に抱いたら、私の目から涙が溢れまして。
久しぶりです。
いろいろあるけど生きてました(過去形)(生きてるよ)
久しぶりに、ぶいこん行きました。
前に行ったの20周年か何かだったかなぁ。その時は横アリで、今日も横アリで。
4曲目ぐらいで涙腺ぶっ壊れちゃったぜ。
私が初めて買ったアルバムのリードトラックだったからさ!しかも大人になってから聴くと結構よすぎて、友達が見てる横で大洪水()ゆるせ。
V6は私のジャニヲタの原点でもあり、初めてコンサートに行ったのもV6でした。
学校へ行こう!はいつも欠かさず見てたし、エンディングロールで三宅くんのウインクに見惚れて当時小学生の私は転がされたのであった。40過ぎても溢れる可愛さ魅力はすごいぜ大先生。
なぜか私の中では三宅くんは大先生だった。
ぶいちゃんはどっぷりと言わずとも、私と母の1番濃い時間に寄り添ってくれていました。
小学生〜中学生の頃、ちょうど母方の両親(なので祖父母ね)の介護で、母の実家と我が家を行き来していまして。
その車の中でずっとV6を聴いていたものです。
なけなしのお小遣いはCDに溶け、誕生日もクリスマスもCDに溶け。そんな生活の合間に、母娘でV6のバラエティを見るのも楽しみのひとつでした。
確かにしんどかったはずなんだけど、当時の頃の彼らの曲を聴くと、不思議とそんな楽しい思い出が蘇る。
ぶれない彼らをゆるゆると好きでいられたし、
まさかこんな日を迎えるとは思ってもいなかった。
懐かしい曲ばっかり歌われると思わなくて、マスクを取り替える羽目になるなど←
あまり多くを語らなかったけれど、それでもやはり惜しんでしまう。
なんで解散しちゃうんだろう、と母がぽつりと呟いたし、私も思うけれど。思い出はいいところで区切るのがいいのかもしれないし、結局深いところは本人たちにしかわからぬのだろうな。な。
始まりと終わりは対だし、離別は自分がするのも、見るのもずっとつらい。
なんなら離別を見届ける方が100倍つらい。何でもな!
この手の話は、よくわからん時に突然降ってくるから、大好きもありがとうも、ごめんも、伝えられる時に伝えておくしかないのだよね。言っても言い足りないけど、言わずに後悔するくらいならちゃんと伝えた方がいい。
噛み締めるのでいっぱいで、いろんなこと考えながらずっとステージを眺めていた。とてもではないけれど、解散してしまうような雰囲気がなかったり。でも、メッセージは完全にそれだったのだよなあ。終わってしまうんだなぁ、とその時に思った。
ほろほろ零れていくものは止まらない。
最後までちゃんといつものV6でいてくれてありがとう。いつまでもお互いを好きでいられるような、特別な絆が続いてくれるといいな。
横アリ出てから限界オタク爆発してすみませんでした
あと、我が家の冷蔵庫事情とか語ってすみませんでした。いつまでも、あると思うな親と米。
介護してくれた友人たち本当にありがとう〜やはり現場はとても潤った………
いつも難しいことだらけ。
見守ることしかできないことを見るのも待つのも、どーーーーしようもなく歯痒いのだけど。
自分にはどうしようもならないことはたくさんあるね。そうね。今回のことがそうであったように。
言葉にしないと伝わらないこともあるし、伝えなければ結局それは何にもならないのだ。私も誰もエスパーじゃなかった。はい。(一つ前の日記でも同じこと言ってた。壊れたラジオか私は)
終わりの瞬間までちゃんと見届けようね。
たたみます。
消せないはなし
新宿駅のJR線ホームへ続く階段、
やっぱり眩しくてちょっと切なかったな
自分の組織の親玉組織の役員を卒業しました
て言っても去年卒業して、今年度は会計監査で居残ったんだけどなんやかんやとごにょごにょ
これでほんとにおしまい
もう4度目の退任挨拶はしない
労働組合の役員やることになって8年目
その時間のほぼ半分くらいは、親玉組織に
足突っ込んでました
私なんてひよっこは片隅で愛想笑いしとこ、そのうち誰も気づかんやろ、と思ってスッと生きて行くつもりだったんだけどなあ
先輩に言いくるめられてちょっと突っ込んだらズブズブでした。
でも沼の先に、大好きだなぁと思える
尊敬できる仲間たちにも会えました。わーい。
当時、私以外みんな東京に住んでて
私が上京する折に触れて飲みに行ったりしてたものです。
同性として憧れていたお姉さんと、数年前から実は接点のあった優しいイケメンの先輩(推し)と、お兄ちゃんみたいだけどブレない先輩と
組織にはいろんな人がいたけど、この3人が特に良くしてくれて、ビビり散らかしてた私を輪に入れてくれたり、組織感の情報共有したいねってことでよくご飯行ったりしてた。
推し先輩が組織で虐げられた(フィルター)ときも集まってみんなであーだこーだ話し込んだりしたし、私とお姉さんが学習会に行ってきて、帰りにカフェでお茶してたら推しとお兄ちゃん先輩が現れた…ということもあったし
推しが酔っ払うとぐだぐだに甘えてくるのも
「みーこを口説くなw」ってツッコむお姉さんも
お姉さんといいコンビ過ぎるお兄さんも
好きだったなあ
初めて4人でプライベートで飲もうって
なったのは2019年のくそさみ2月。
2軒ぐらいハシゴして、帰り際の新宿駅で
唯一方向の違う推しが、階段下から、ホームに向かう私たちをずっと見送ってくれたんす。
あれがなければ、今日はなかった。
お姉さんだけは去年卒業して
私は役職を変えて今年ようやく卒業。
推しとお兄さんも、今年卒業してました。
(この間まで知らなかったw)
推しの退任挨拶をzoomの画面越しに見てて
いろいろあったのに、大人な言葉を述べて愛おしそうに振り返る姿にすごく泣いてしまいそうで、たまらずお姉さんにLINEしたら「推しの最終公演かよ」って返ってきて相変わらず好きだなあって思いました()
私も結局いろいろあって組織への思いはだいぶ薄味になったけど、この人たちがいたからやってこれたわけで、去年もたくさん伝えたけれど、落ち着いたらまた連絡してみようと思う。
ありがとうも、またね、も、好き、も
口にしなければ何にもならなくて、こんなご時世だからこそ前向きな思いは言わないと後悔してしまうことも多分ある。何度だって言っていい言葉や想いもあるんだろうなって。
なんだか今年の夏、大して人に会ったわけじゃないのにいろんなことがありすぎて、だからこそ大事にしなきゃいけない気持ちもたくさんわかったんだと思うのです。
いつかこの人たちから忘れられてしまっても、私の記憶が抜け落ちてしまっても、どこかに残しておきたくて、たぶん筆を取った。
私の8年のうち、最愛の2年はちゃんとあったのだと
また真冬の交差点で会える日まで。
約束したものはないけれど、いま勝手にこっそり約束しました。
みんなお疲れさまでした。

はなしのはなし
Life is showtime.
It's wonderful entertainment.
合間に口ずさまれるこの楽曲が少し優しくて、自分についてた嘘を吐き出す瞬間があったな、とふと思い出しけり。
ということで、久しぶりにふぉ〜ゆ〜全員が揃った場を見てきました。
SHOW BOYを観に、これまた久しぶりのクリエ。2年ぶりか?ちゃんと前フリ見てなかったけど再演だったんだなぁと。
再演ってことはつまり私の中の限界ヲタクが爆誕するので割愛。しゃーない。
やはり福田悠太は最高でした。
ステージに立った彼を観た瞬間に涙出そうだったんだけど、さすがにほぼ前列でいきなり泣いてるのはアレすぎて感情が自重。
設定が!夢を諦めた裏方だからもうアレ。福ちゃんっていつも不憫すぎてもう5周まわって好き。
「Nobody's Perfect.完璧な人間なんていないの」そういえばそんなフレーズあったな、と思ってぐさぐさ刺さってしまった。
夏っていつも仕事柄落ち込んでしまうから、とても刺さった。久しぶりに頭空っぽにして、手を叩いて推しを眺められた。私やっぱこの作品好きだなって思えたし、まだ自分の脳死んでなくて感動した()
ヲタクはどこまでいってもヲタク。
ふぉゆ4人がそれぞれ合間に零す本音は、それはもう今に満足していない、自分に嘘をついて生きている姿みたいだなと。そんなこと思いながら。
There's No Business
Like Show Business
そういやまともに外に出たというか、出てたけどあんまりいろんなことに触れてなかったというか。
いろんな人にいろんなことを伝えたかったのに、言葉がどれも正解じゃない気がして、結局埋もれてしまっていたので、ここに供養しておきます。
ここまでありがとうございました。
特にTOYちゃん、猫神様。
大丈夫って言ってたけど、前段のことも相まって、ボディブローみたいにじわじわ痛くて。見ないフリしたんだけど、やっぱ痛かった。
もう誰に何言ったか覚えてないけど、始まりすら結局のところ自分で選び取っただけのことで、私はやっぱり下手くそだったな、と。
それでもいいとは思わないけども。
誰かの目にはちっとも進歩してないって見えたり、別の誰かの目には少し変わったって見えたり、だといいな、と思います。今は。綺麗な球体にはなれないから、しゃーないか。
言葉を選びがちなのは、多分どこかで失いたくないからで、それで遅くなるんだと思う。
だいぶ自己主張するようになったけども。足りない人にはきっとまだ足りない。仕方ない。
も少し時間かかると思うけど、私がんばるので。
という言葉だけ供養させてくださいませ。
っしゃごはん作ろう。
たたみます。ますます。
忘れえぬはなし
10年前のことなんて大して覚えてないんですが、ただ、あの頃は厳しくて就職がギリギリまで決まらなかったので、決まったことを知ってバイト先まで飛んできた両親の顔はよく覚えてます。
お母さんなんて、私の顔見て泣いたもんな。
というわけで、勤続10年おめっと私。という話。
お母さんが20代後半で結婚して私や弟を産んだので、自分もそうなりたいなーそうなるかなーって思ってたんだけど、未だにキャリアとプライベートで揺れてます。娘は。
思い描いてた通りにはあんまりならんもんだ。
新卒でドキドキワクワクして入社して、その時の最初の上司は、10歳上のお姉さんでした。
職場見学で「うちの係に配属されるのはどんな子だ!?」って前のめりに現れたその人の当時の年齢に、私はなってしまったのだなぁ。その人の気持ちが今はよくわかる。私もよくやるw
平坦ではなかったけど、やはり厳しいご時世だったので、先なんてわからない。だから、なるべく頑張って続けたいと思ってたんですがね。意外と早かったね。
いろんなことしかなかったな。
入社して丸2年で「一番残業が多いやばいところ」への異動を命じられてみたり、そこの課長とソリが合わなくてブチ切れたり、メンタル死にかけて休みながら出勤してみたり。
時にはチームの人に呼び出されて泣きながら相談されたり、なぜか上司に説教すると言う意味のわからんことを繰り返してましたw
かたや、尊敬できる先輩や可愛い後輩にも恵まれて、近しい人はいい人ばかりだったと思う。
大好きなボスが「仕事で失敗しても命までは取られねえよ」と言ってたのが、今なんとなく私の支えだと思う。
まじで。
10年働いたことは別に偉くもなんともなくて
私の同期も後輩も、ぽんぽんと去っていったし
働くことが全てじゃないんよな、とも思う。
働くのは生きるための手段のひとつ。
逃げても命までは取られないんよな。
そこで自分らしく働けるなら
そこで自分らしくいられるならいいんじゃね?と
なんとなく思います。
思いもよらないことの連続だったし
まさか節目に転勤するとは思わなかったわね。
こんな時だから、次の10年はおろか
1年先もよくわからないけれど
なんとなく、それとなくやっていきたい。
今までありがとうと、これからもよろしくを。